本音に気づくことが怖い
事実として嫌いと認識することができない場合がある。
それは、それを知った先に対する恐れがあるから。
自分の中の嫌いを認めると、
関係性が終わるのではないか、今を保てなくなるのではないか、縁切りになるのではないか、そうすると一人になるのではないかという恐怖。
『嫌ってはダメ』という思いが
嫌ってる自分を否定したがり恐れているのです。
特に機能不全な家庭に育った人は、嫌われたら子供は生きていけない、という本能から、自分にどんなに優しくなくても嫌ってはいけない、どんなに納得できなくても、目の前の人を愛さなければいけない、と歩み寄り愛することを学んで、それを実践してきたので、
自分が築いてきた愛情の獲得法を手放すのはとても怖く思うのは自然な反応なのです。
だけど、その恐れは妄想です。
心の中の本音に気が付いたからと言って、事象はそんな風には変わりません。
では何が変わるのかというと、自分の中の嫌いに気が付くことで、潜在意識と表層意識が同じになるので、
この人苦手だなー、苦手だからこのくらいの付き合いにしていいんだ、と自分に許可ができるようになって、無理のない距離感が取れるようになるのです。
一言でいうと『生きやすくなる』のです。
そして、そんな自分を認めることができると、相手の中の自分との違いも認めることができてくるというおまけまでついてきます。
このように、一旦、自分が嫌っているという事実を容認してあげることで
関係性に、自分にとって望ましい変化が起こるのです。
恐れなくていい理由
そもそも、人の心はそんなに単純にはできていません。
複数の思い、感情の融合体であるのが人間なので、
ある一面は大嫌いでも、別の面は好きだったりするのです。
だけど、人の潜在意識の思いは一方向にしかフォーカスできないので、嫌いにフォーカスしているうちは嫌いだけが協調されます。
心の中は嫌いにフォーカスしているのに、その嫌いを見ない事にして、表層的に人としての道徳観や目的から好きであろうと行動をするのは、一見素晴らしい在り方のように見えますが、
とんでもなくエネルギーを使って消耗して、心がくたくたになるうえに、自分の本当の心もわからなくなってしまうのです。
人を好きになるのはとてもいい事。でも、それは、自分の心の統合の先にある在り方。
自分の本当の思いに気が付くことは、人を好きになるにはとても重要なことなのです。
嫌いであるということに気が付くと、そこで手放しが起こります。手放しが終わると統合がおこり、視点が動いて、好きな部分を思い出したり見つけたりできるのです。
そうすると、心が落ち着いてうまく距離をとれるようになってくるのです。
全部が好きな人はいない事を知っていると人間関係は楽になる
嫌いな人の中に好きがあるように、好きな人の中にも嫌いな部分は必ずあります。
この人のここは好きだけど、ここは嫌い。
この感覚、幼少期はとても自然に持っていませんでしたか?
○○ちゃん嫌い!!と喧嘩をしても、毎日遊んでいた、あの感覚。
これ、忘れてはいけない感覚なんですね。
嫌いな部分は誰だってある、大好きな人の中にも、必ずある、
これが前提なら、今日の嫌いは、単なる経験の一つとなるのです。
好き、嫌いの中には、
好きだけど嫌い、と 嫌いだけど好き、が存在する。このことを知ると、
いろんなことに整理がつきやすくなります。
好きなことだけで探そうとしていたら、
好き!と思っていた人の嫌いなところが見えた時に、違うかも・・と思ったり
これ、好きだと思った趣味も嫌いがのぞくと、これじゃないのかも、、と手放したり。
このように、出会っていても出会えないと勘違いしてしまうというもったいない現象が起こるのです。
カテゴリーは同じでも、
その中で苦手、嫌いを持っているのはとても自然なこと。ロックは好きでもクラシックは嫌い、、よくあるパターンですよね。
こんな感じで、
好きだけど嫌いがあるはずという前提なら、それはそれとして考えらるようになってきます。
そもそもが矛盾している
それぞれが持って生まれた命式も矛盾があります。
人は宿命としてそもそも矛盾を抱えているのです。
比肩という一人で守り戦う星と、みんなで協力して守り戦う星を同時に持っていたり、
食神というおおらかな星と一緒に偏官というせっかちな星を持っていたり、
このように、自分の中にも『どっちやねん!!』という矛盾が沢山記されています。
これを自分の中で受容してあげていなかったら、葛藤となるし苦しむ原因となるのです。
まとめ
命式さえも矛盾している、ということは、矛盾を受け入れる包容力というテーマが、人間のベースにはあるということを意味しているのです。
自分の中に潜んでいる誰かを嫌いな思いも大切なあなたの思い。
自分を許す(許可する)と誰かのことも許せる(許可できる)ようになってきます。